似たような話

「子どもつくって遺伝子を残したい」というのはまともな考えなのだろうか?普通に考えて「自分の遺伝子」は自分の子で半分、その子でさらに半分…末永く、と考えればその割合はどんどん(2の累乗に反比例して)減少してゆく。ひ孫のひ孫のひ孫は1/512であり、つまり残りの511人分は自分と「関係ない人の遺伝子」である。自分の子や孫ぐらいまでならその配偶者の選択に影響を及ぼすことは可能であったとしても、それ以降は自分のまったくあずかり知らぬ人間の遺伝子がどんどん累積されていく。今自分ががたまたま持っているにすぎない形質の一部がそこに反映されることにどれほどの意味(価値)を見出すことができるだろうか?おそらく、ひ孫のひ孫のひ孫は、自分とほとんど「似ていない」だろう。翻って、自分の曽祖父母の曽祖父母の曽祖父母がどんな人であったか、というかそれにあたる人々は、男性256人+女性256人いるわけだが、彼らの一人一人に対してどんな思い入れを抱くことができるだろう?その人々と自分が「似ている」ことにどれほどの意味(価値)が見出せるだろうか?ひ孫のひ孫のひ孫(9世代後)は、平均的に25歳で生殖がなされるとして、225年後のことだ。たった225年後の子孫の一人につき1/512しか「自分の遺伝子」は影響を及ぼさない。「自分の遺伝子」と1/512しか同じじゃない人間が今いたら、その人のことを自分と関係があると思えるだろうか?だから、「自分の遺伝子を残す」ことを目的として「子どもをつくる」という主張は、あまり正当性がないと私には思われる。子どもをつくることに意味(価値)を見出したいなら、なにかほかの理由によって正当化したほうがいいのではないか、というのが私の意見である。それはせいぜい「自分の愛した人と自分の遺伝子をシャッフルしたい」というような欲望とも欲求とも言えないような本能的な衝動にその根拠を見出すぐらいではなかろうか。

だから愛してもいない人との間に「自分の遺伝子を残したい」から、というような理由で子どもをつくるのはあまり意味がない(だからやめたほうがいい?)。まじめに考えるなら、何かほかの理由を考え出したほうがいいだろう。だから「遺伝子」などと言わず、もっと抽象的な「家」の存続のためなどと言ったほうが、(その目的自体が正当化できると思えるかどうかは別として)理に適っていたとも言えなくもないのではないか?そもそも「養子」が今よりずっと一般的であったらしい時代においては「家」と「血縁(遺伝子DNA)」は、それほど密接でもなければ重要でもなかったのではないだろうか?ちなみに、私自身、私が属する「家(姓)」と私には、血縁(血族)関係はない。その「家」と婚姻関係のあったもう一つの「家」(私の母方の祖母の属していた「家」)から「祖母の父の弟」が改名し、さらに祖母がその養子となり、今に至っている。

そもそも家系図というのは、過去に向かって樹状に(2の累乗で)分岐していくものに対して、恣意的に(もちろんそれなりの正当化はされるだろうが)1本の線を引いただけのことだ。そこから漏れた(生物学上の)先祖は、忘れ去られる。(そうでないと複雑すぎて把握できなくなる)
私は自分の4人の曽祖父と4人の曾祖母について、すでに把握していない。名前を受け継いだ一人の曽祖父(母親の母親の義理の父親(ただし実の父親の弟))しか具体的には認識していない。それには私がその祖母といっしょに暮らしている(その祖母は長命で健在)ということとも深く関係するだろう。
その選ばれたただ一人の曽祖父だけが特権化され、あたかも唯一のルーツででもあるかのように感じられさえもするが、それは錯覚にすぎないだろう。本当には4人の曽祖父と4人の曾祖母がいる(複雑な婚姻(生殖)関係がなければの話であり、そして事実上ないらしい)。彼らのことはほとんど知らない。

※計算間違い等あったら訂正します。