(原子力)発電について(備忘、未来予想)
私のみるところでは、「原子力は必要悪である」
※「必要悪」という言い方に違和感を感じる(おそらく「推進派」の)人は、適当に読み替えてください
というのが、日本人全体のコンセンサスとなりそうだ。
ここは議論したがる人もいるかもしれないが、
「危険でコストも高い(または安いわけではないと言いたい人は言ってもよい)が、エネルギー(電力)源の多様性(安定性、安全性(外交的な意味で))を保障するために、必要である」
というところだろう。
これはぜんぜん根拠がないと言ってもいいが、大体10%程度を原子力発電によってまかなうことになるのではないか。
老朽化した、危険性が明らかになった、不要な原発は廃炉にする。そして、もし将来的に必要になれば、新型のより安全性の高い原発を少し新設することになるかもしれない。ただしその場合もおそらく新規立地は不可能で、申し訳ないが(?)今すでに原発がある場所に建てられることになるだろう。
そう考えれば、すでに作りすぎてしまっているので、廃炉や使用済み核燃料、核廃棄物の処理処分にかかる費用を考えると、なんと無駄の多いことをしてくれたものだ、と将来世代に言われることになるだろう。
責任者は反省してもらいたい。未来は不確定とは言え、最初の判断に問題があった。
必要な電力は、従来どおりの火力、水力、これから増やす風力、潮力、太陽光、LNG、バイオエタノール等でまかなう。
個人的には太陽光と廃棄物からバイオエタノールを作る技術に好感を持っている。
理想的には家庭から出る廃棄物等をバイオエタノールに変換できる装置を各家庭に配置し、それで各家庭に必要な電力を発電することだ。
また、省エネ技術やライフスタイルの変更によって、電力に限らずできるだけ少ないエネルギーで暮らすという発想も大切だろう。
産業用は別として、家庭用電力は可能な限りローカルに供給することが、送電ロスも含めて有益だろう。
この背景には、自分たちの生活を支えているものをブラックボックスにしないほうがよい、という基本的な価値観がある。
基本的な「自給率」を上げること。
CO2と地球温暖化については再度議論する必要があるだろう。
少なくとも巨大独占企業が発送電を支配していることはあまりメリットがないことは確かだろう。
エネルギーシフトの話をするなら、総括原価制度、発送電分離、電力自由化等の話をしないと不十分だろう。
いずれにせよ、日本国民のためになる透明で民主的な(可能ならば合理的な)意思(政策)決定のプロセスが必要だろう。
言うまでもなく、納税者が望む税金の使い方をするべきだ。
一部の人たちの不透明な思惑で決められることであってはならない。
思えば、日本ではこれまでその税金の使途にどれほど納税者の意思が込められていたことだろうか。
(未来世代からの借金である国債含む)
なぜたかが発電のことで、こんな議論になるのか、と言えば、実はやはり、原子力(発電)の可否についての議論がけっきょくイデオロギー、価値観、思想の対立を含んでいるからである。
(きれいな二項対立に分類できるかどうかは別として)
それがどのようなイデオロギーの対立であるか、はまた機会があれば詳述することにして、ここでは措く。
いずれにせよ、実際には日本においては、共同体において異なる多様な、場合によっては対立する(両立できない)価値観や思想、イデオロギー(等によってもたらされる利害の対立)を前提に、なんらかの意思決定を(民主的に)していく、という経験が非常に少なく浅いのではないか。
それだけに余計に、今もしかすると日本社会は混乱しているのではなかろうか。
(放射能被曝のリスクの不確定であることによる混乱だけでなく)
しかし、民主主義も一つの思想である(にすぎない)。
この思想が自然に身につくのではない。
思想は教育されるものである。
(教育されねばならない・・・結果のコントロール)
日本において、民主主義は定着していない。
このことには教育の責任もある。
※いわゆる狭義の「学校教育」に限らない。
しかしいずれにせよ、「ダブルスタンダード」「言ってることとやってることがちがう」「一貫性を欠く」のは好まれない。
「はっきりしてくれ」という、(原理主義的)要請が出されることになる。
(もしかしたら、これも一部の人たちから出るにすぎないかもしれないが、これは「理性」(主義、合理主義、近代主義)によって、正当化されるだろう)
「民主主義を標榜するなら民主的にやろう」ということである。
※私は必ずしも民主制が最高の集団的意思決定方法である、と主張しているわけではない。
日本という国(地域)で暮らしていくからには、どのような結論であれ、いずれ協力して暮らすほかない。
※私は離脱(亡命!)する可能性があるが。(これも私が民主主義に不慣れであることに起因するのかもしれないが)
企業が海外へ転出してしまう、という話があるが、国民が出て行ってしまう、という場合もあるだろう。
日本の場合はそれなら、と空いたスペースに潜り込みたがる外国人たちがけっこういそうだが。
日本の国土風土にはそれだけ豊かさ、魅力があると思われる。
しかし国土風土だけでは暮らせず、そこに社会が形成されるのだろうが、その社会がおおよそ居心地のよいものではない、ということだ。